パニック障害克服記 〜運動療法〜

栗田秋雄(仮名)

 私が初めてパニック障害に襲われたのは、かれこれ8年も前のことです。

 ご承知の方も多いと思いますが、その頃の日本経済はバブル崩壊に直面して、企業倒産の多発や従業員のリストラが次々と行われ始めた頃です。私の勤めていた会社も例外に漏れず倒産の危機に直面して、毎月の給与が支給されない状況に追い込まれていました。長男は春から3年保育の幼稚園に通う予定をしていましたし、妻のおなかには次の子供が宿っている状況で、購入したマンションは多大なローンを残して購入時の半分の値段でしか売れない状況にまで陥っていました。

 このような状況下におかれ、今後の生活を維持していくことに悩みつつ、給与が支給されるか分からない会社へ日々通勤しておりました。その通勤時の満員電車の中で、私の人生の中で経験したことのない異常な状況が私を襲ってきたのです。

 今でも思い出しますが頭や肩が重い感じで電車に乗っていたのですが、しばらくすると心臓の鼓動が激しくなってきて、呼吸もできないような息苦しさにみまわれ、冷や汗がでてきて、その場に立っていられず倒れてしまいそうな恐怖感で、ターミナル駅に到着するまで必死にこらえました。駅に到着し電車の扉が開き、よろよろとホームに降り立ち、ホームの角で休んでいたのですが、徐々に鼓動や呼吸が安定してきました。自分でも何が起こったのか理解できずに、そのまま会社に出勤したのですが、電車での異常な状況が一日中頭から離れませんでした。

 この日から私のパニック障害との戦いが始まりました。

 その頃の私は、そのことが仕事の疲れやストレスから起こったものと考え、仕事を控えめにして休みでも取れば良くなると思いこんでいたのです。しかし、私の考えとは裏腹に状態は悪くなる一方で、急行電車や満員電車に物凄い恐怖感が沸き、空いている各駅停車の電車に乗っていても、息苦しさや心臓がドキドキして二駅ぐらいで降りてしまうような状態になってしまったのです。電車以外にも外での食事も喉に通らず食べることができなくなり、自動車に乗るときも高速道路の渋滞に入ると恐怖感で冷や汗が出てくる状態で、一人で自動車に乗ることも出来なくなりました。ひどいときは一人で外出すると恐怖感が沸いてきて家に戻ってしまう状態まで悪化していったのです。

 数ヶ月して、「これは身体に異常があるのでは」と思い、大学病院の内科で血液、CTスキャン、平衡感覚など多岐に渡る検査をしたのですが、何も異常がなく精神的なものだと診断されました。仕方なく会社の近くにあるクリニックに通い、薬を処方してもらい数年間通院していたのですが、病状はあまり変わらず体調が良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。

 そのような状態で、毎日すぐれない体調のまま仕事をこなしていたのですが、仕事のトラブルが原因で、ストレスが溜まり体調が極度に悪化してしまったのです。会社にいても発作が起こるようになり、電車にも全く乗れない状況にまで陥りました。出勤の電車は何とか乗り継いで行けたのですが、帰りは体調が優れず電車の椅子に座って出発を待っていても、いざ発車のベルが鳴ると発作が起こり電車を降りてしまうのです。この恐怖感から逃れようと、お酒を飲むと酔って恐怖感が無くなることを知り、会社帰りに友人を誘って居酒屋でお酒を飲んで帰るようになり、ますます病状を悪化させたようです。さらに悪いことに、毎日のようにお酒を飲み続けたため、成人病検査で中性脂肪、尿蛋白、尿潜血など悪い値が次々と現れました。

 その成人病検査の結果を知ったことで輪をかけて病状が悪化し、一人では全く電車に乗れなくなり、妻に付き添ってもらい出勤する状態にまでなってしまいました。

 今から2年余り前のごとです。

 妻も私の病状を心配してくれて、このような病状の本や新聞記事を読んで知ったのが、「不安・恐怖症/パニック障害の克服」でした。また、パニック障害のことがテレビでも放映されていたようで、妻からクリニックの診察を促され、電車に乗れない私は、妻に付き添われつつK先生のもとへ初めて訪れたのです。

 先生に症状をお話しし、薬を処方していただいたのですが、そのとき一番印象に残っていることは、先生の「病気は必ず治ります。」と言われた言葉と、先生の自信の持たれた笑顔でした。

 その日から処方された薬を飲みつつ、妻と一緒に満員電車に乗る訓練を始めました。最初は妻と一緒に乗り、数日間ごとに満員電車に乗る妻の位置を遠ざけていき、一月ほどで満員電車に一人で乗れるようになりました。

 その頃に処方された薬は会社で眠くなったりと多少の弊害はありましたが、病状も良い方向に向かい、数ヶ月単位で薬の量も減少していき、1年程度で普通の生活に近い状態まで快復していきました。

 その後も順調に病状は良い方向に向かい、処方される薬も少量になり、電車、高速道路、外での食事なども一人で行えるようになってきました。しかし、たまに起こる予期不安が残り、仕事で疲れたときなどにも予期不安が起こってしまう状態は、その後数ヶ月経ってもなかなか治りませんでした。

 その状態を救ってくれたのが、サッカーとの出会いでした。

 私の長男が小学5年生になり、サッカースポーツ少年団に入団し、休みの日は元気に練習や試合に参加していました。私もスポーツは大好きなので、休みの日は子供の試合の応援に出かけるようになり、親バカですが試合中の子供のプレイに興奮して大声で応援していました。そうしているうちに応援だけでは満足できなくなり、指導者の方とも交流が深まっていき、学生時代にサッカーを多少経験した経緯もあって、指導者を務めることになりました。

 仕事のほとんどがデスクワークの私は20年近くスポーツには縁遠く、健康のために行うジョギングやスポーツジムも長続きせず、病気を罹った要因もあり運動は殆どしていませんでした。指導者になることは子供を預かる責任もあり、仕事の忙しさや体力的なことも悩んだのですが、仕事人間の私を変える良い切っ掛けになるのではと考え、思い切って引き受けました。

 まずは、サッカーの審判資格を取得するため、筆記試験の勉強と12分間走の体力テストに向けジョギングに取り組みました。会社の帰りに飲んで帰るのを殆ど無くし、2ヶ月ほどジョギングを続け、春の審判試験に無事合格しました。

 その後、夏場の炎天下での練習や試合での審判を続けていくうちに、体力的な疲労は残りましたが、練習や審判で体を動かした後の爽快感などにより精神的にも充実していき、これまで付きまとっていた予期不安が殆ど無くなっていったのです。

 今では夏場の暑さを乗り切り、練習日や審判で体を動かすことが楽しくなり、充実した仕事と私生活を送れるようになったことに感激を覚えるほどです。

 私の人生の中で、まだまだ色々なことが起きるでしょうが、病気との戦いとサッカーの指導者に取り組んだ経験は、私にとって大きな自信を与えてくれた結果となったように思います。

 現在は、K先生に会うのも数ヶ月に一度程度となり、Aクリニックを卒業する日も近いように思います。

 苦しんでいた私を助けていただいたK先生と、一緒になって病気と闘い苦しんでくれた妻に心から感謝しています。

 ケ セラ セラ<こころの季刊誌>
VOL.23 2001 WINTER