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病(やまい)と詩(うた)ーウィリアム・S・クラーク先生(6)ー(ケセラセラvol.82)

東京大学 名誉教授 大井 玄

 

彼の活躍、社会的地位、当初の成功に魅せられて、1880年末から81年終わりまで、アマーストの町全体が鉱山株の熱に浮かされた。町全体として鉱山株の形で二十五万ドル投資しており、ほとんど全家庭が出資していたという。

将来を楽観したのだろう。彼らは規模を拡大してクラーク・ボスウェル証券会社を設立し、ユタ州のストアモント銀山、カリフォルニア州のハイト金山など、次々に鉱山を買収していった。クラークは精力的に各鉱山を見て回り、合計おそらく数万キロに達する旅をしている。1881年秋には、北はカナダのノヴァスコシアから南はメキシコにいたる七つの鉱山を傘下に収めるが、1882年春に会社が倒産した。

その最大の原因は、クラークがボスウェルに財務経理を任せ切っていた盲目性にあるだろう。五月十四日付けのニューヨーク・タイムズ紙に載ったクラークの釈明は、それを物語っている。

 

(前略)事務関係の責任は彼にあったのです。会計簿をつけ、金の出し入れをし、請求書が来れば支払うのは、彼がすることになっていたのです。ところが、支払いは済んでいない、支払った分は帳簿についていない、帳簿のつけ方がでたらめでさっぱり様子が判らないのです。ボスウェルで一番おかしいと思うのは、ストアモント銀山から九万ドルの地金を受け取っておりながら、事務所では一切記録がないということです。私宛の差押令状は、その銀の地金分だということでした。しかし、私の間違いでなければ、だまされたのは私のほうなので、私がなにかひどいことをしたというなら別ですが、私の嫌疑はやがて晴れると思います。(後略)

ボスウェルは何の申し開きもしないで、姿をくらましてしまった。クラークが訴えられた訴訟に関し、民事裁判所に提出した鉱山事業についての答弁書によれば、彼もボスウェルも鉱山の売買経験はまったくなかった。彼はボスウェルの怪しげな前歴を知らなかったし、投資家の利益を守る目的で、ボスウェルに鉱山経営の資格があるかどうかの調査を一度もしなかった。

五月二十九日付けのリパブリカン紙もその事実を批判している。

彼は各事業所の所長でありながら、初めからボスウェルに会社の帳簿と財務とを一切任せ切っていたと見える。自分で帳簿を検査するとか、誰かに監査させるとか、各鉱山の財務状態を調べるとか、利益がどう使われているかを調べるとか、彼は一度もしたことがないらしい。(後略)
五月半ば、鉱山株に投資した人々の集まりがアマーストで行われ、手痛い経験が語られ意見交換が行われた。しかし、彼にはっきり批判的な者は二人だけだった。アマーストの人たちはクラークの誠実な人格と自信家で雄弁で楽天的な個性をよく知っていたし、金ぴか時代に株に手を出して少々損をするのは当たり前のことだと考えていた。

筆者がアメリカ生活をしていた二十世紀後半、大学教師に株に手を出している者が多いのに驚いたことがあったが、金融操作で儲けようとする傾向は、クラークのときと変わっていないのかも知れない。

いずれにせよ、彼の事業の崩壊、倒産、それに続く訴訟の数々、いずれもが彼の自尊心を深く傷つけ、強いストレスを加えたに違いない。数週間後肺炎になり重体が伝えられた。いったん回復するがおそらく心筋梗塞による心不全を起こした。二階に上ることも禁じられて一階の書斎にベッドを移した。それでも若いときから好きだった乗馬は出来た。

翌年1883年春には一時重態になり絶対安静を命じられたが、小康を得てからは馬で郊外に出かけたりしている。遅咲きの花のついた林檎の一枝を手にして戻ってきたのは、次の年の九月のことだった。病状は進行した。死の床にいて、彼は生涯中のどの仕事よりも、日本で行った伝道者としての仕事に満足していると長年の友に語った。札幌での日々は、一瞬の光芒のようにその脳裏に輝いたであろう。クラークは1886年春、六十歳の誕生日を数か月後に控えて死去した。

 

「野心」か「大志」か

「少年よ、大志を抱け」という訳に対するささやかな違和感がこのエッセイを生みだした。

クラークに薫陶を受けた大島正健が懐古するように、大島はシェークスピアの悲劇「ジュリアス・シーザー」におけるマーク・アントニーの追悼演説を繰り返し練習させられた。Ambitiousという言葉は何度となく出てくる。しかしそれははっきり「野心」という意味で使われている。福田恆存の訳では

友よ、ローマ市民よ、同胞諸君、耳を貸していただきたい。
今、私がここにいるのは、シーザーを葬るためであって、讃えるためではない。
人の悪事をなすや、その死後まで残り、善事はしばしば骨とともに土中に埋もれる、シーザーもまたそうあらしめよう。
高潔の士ブルータスは諸君の前に言った。シーザーは野心を抱いていたと。そうだとすれば、それこそ悲しむべき欠点だと言うほかない。そしてまた、悲しむべきことに、シーザーはその酬いを受けたのだ。(中略)
生前、シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰ってきたことがある、しかもその身代金はことごとく国庫に収めた。かかるシーザーの態度に野心らしきものが少しでも窺われようか?
貧しきものが飢えに泣くのを見てシーザーも涙した。野心はもっと冷酷なもので出来ているはずだ。(中略)
みんなも見て知っていよう。過ぐるルぺリカリア祭の日のことだ、私は三たびシーザーに王冠を捧げた、が、それをシーザーは三たびしりぞけた。果して、これが野心か?

とうてい「大志」とは、翻訳できない。

クラークがやはり「野心」に近い意味でambitionを使っていたらしいのは、彼のアマーストに帰ってからの行動からも窺われる。経営危機に瀕した大学を留守にして、一年間、洋上大学の高給取りの学長になりたいと申し出る「大志」があるだろうか?しかもその大学は、彼が創設し、手塩にかけ育ててきたものである。また理事会がその申請を却下したからといって、あっさりと辞職して次のもっと有利な職に移るだろうか。

しかし彼の”ambitious”は、稀有に純真な倫理意識を持つ日本の若者により「大志」と訳され、今日に至るまで伝えられている。野心と志の違いは、他者に対する献身の有無と度合にあるように私には思える。そして、札幌農学校にいた八か月間、彼が伝道者・教育者として学生たちに献身したのは事実である。貧しい助け合い社会であった当時の日本において、「大志」は、学生たちが教師に贈る最高の賛辞でもあった。したがって、この訳はやはり名訳と言うべきなのだろう。

ジョン・マキがクラークの生涯を描いた伝記では、日本人的優しさや崇敬の念は感じられない。アントニーの前出の演説をもじって終章をこう締めている。

この男の善事は死後も残った
彼の盲目的な野心は骨とともに土中に埋もれた

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