医療法人 和楽会  なごやメンタルクリニック院長

原井 宏明

 2009年8月末に総選挙がありました。有権者が候補者を品定めするとき、“○○の息子・娘”というのは判断材料の一つになります。批判を受けても、二世議員が増えるのは、有権者にとって“○○の息子・娘”が判断材料としてわかりやすいからなのでしょう。患者さんも自分の担当医が誰の息子・娘なのか、知りたいと思っておられるでしょう。

 私の父は京都市伏見区にある齊藤酒造という日本酒メーカーで働いていました。昔、清酒の二大生産地は伏見と灘でした。月桂冠や黄桜、宝は全国に知られた伏見のお酒です。一方、小さな酒屋さんも伏見には沢山ありました。齊藤酒造はそうした小さな会社の一つです。豊橋市出身の方なら、“英勲”というブランド名に聞き覚えがあるだろうと思います。

 父は造り酒屋の家の出ではありません。広島大学発酵工学科卒業後の就職先が齊藤酒造だったということです。入社し、定年退職、役員として会社に残り、67歳で辞するまで一貫して製造部門で働いていました。生産・品質管理の他に“利き酒”することも仕事の一つでした。自宅にできたばかりのお酒を父が持ち帰り、老ね香や火落香、麹ばな、等の用語を聞かされながら、私も“英勲”を夕食時に飲まされていました。小学校高学年のころからです。

 父の仕事は次第に増えていきました。日本の高度経済成長と共に清酒の消費量が増えていく時期には原材料や原酒の買い付けも父の仕事でした。そして、父が50代になった1980年代からは日本酒の消費が全国的に減り、ビールや焼酎が伸びていくようになりました。この時期にはリストラや生産合理化、さらに他社への事業切り売り交渉までが父の仕事になりました。それでも、英勲の販売は右肩下がりに落ちていきます。ピークの時からみたら、今は1/4程度です。父は取引先を切り、部下を切り、酒蔵を売りを続けていきました。私が小学生のころ、父とキャッチボールをし、杜氏の人達と餅つきをした酒蔵は今はマンションになっています。父にとっては、この頃がストレスのピークで血圧は160/100、役員を辞めたら正常になったということでした。

 2009年のお盆に実家に帰ったときに、外壁に民主党の選挙ポスターが貼ってありました。父に尋ねると労働組合を立ち上げたときから同盟(全日本労働総同盟、現在の連合)の人と付き合いがあり、今回頼まれたということでした。齊藤酒造に労働組合を作ったのは父が30代で、製造課長のころでした。伏見の造り酒屋で労働組合ができるのは前例がないこと、自分のような課長は経営側になるのが普通だが、オルグの人と策を練って、労働側になるようにしたこと、など父が私に話してくれていました。社長からは嫌がられ、母からはお人好しと言われながらも、働く者の権利を守るために活動することがうれしそうでした。部下を守り、伸ばしていくことに集中できたこの頃が父にとって仕事が一番楽しい時だったのでしょう。小学校低学年の私にも、なにか父が凄いことをしているという感じが伝わっていました。その後の、会社のリストラで苦労しているときも、父の話のメインは製造部門の後継者問題でした。退職した今も、後任の製造部長が作った酒が、全国新酒鑑評会で、全国最長記録の12年連続金賞を受賞したことをうれしそうに私に話してくれます。

 そんな父の人となりを語る材料は他にもいろいろあります。父のことを振り返るために手紙を整理していたら、私がミシガン大学文学部に1年間留学していたころの手紙がでてきました。25年前のものです。留学のことは、前のケセラセラに一度書いています。

http://www.fuanclinic.com/harai_h/harai_q55.htm

 ロータリーからの奨学金はありましたが、授業料と寮費がまかなえるだけです。日用品の購入には不自由します。金をせびる先は親しかありません。以下は父からもらった当時の手紙の一部です(一部改変)。

 送金小切手400ドル同封します。送金についてはお母さんの機嫌が悪く、200ドル(5万円)までは説得しましたが、それ以上はダメだったので、この400ドルは内緒です。200ドルがお母さんへの表向きの数字ですから心得ておいてください。広島の祖母の入院、葬儀の費用、家の雨漏りの修理費用、君の妹の就職費用などかかって、さらに酒が売れない売れないと私がこぼすものだから、お母さんの先行き不安の気持ちもあり、お金の話でいらつくようです。君が大学を卒業し、医者をすればだいぶ楽になるはずだという気持ちがあったものだから、なおさらと言うことでしょう。しかし、留学というものは、大いに本人のためになると私は思っています。そのためには少々無理をしても仕方ないと考えていますから、気にしないで頑張ってください。ただ、君が彼女と卒業旅行してお金を使ったのはまずかったなあ。自分のお金だから、何に使っても良いというのは面倒を見てもらっている立場の人は言えることではないでしょう。

 ジャンパーなど衣類の荷物を送ることについてもお母さんの機嫌が良くありません。一つには最初にまとめて言えば一度で済んだのに、二つには水虫の薬ぐらい自分で現地で買えばよいのに、三つには送料が高い、そして宏明は親に送ってもらうのは当然と思っている、となって、先に進まなくなっているようです。従って荷物の方は期待しないで下さい。私は送ると言った手前、申し訳なさが400ドルになった一部の要素でもあります。


 私は父を尊敬しています。留学中にお金を送ってきてくれたことにも感謝の他に言い表せる言葉はありません。しかし、母の機嫌に怯え、遠慮し、当時の私に言い訳する様子には笑ってしまいます。一方、今の自分はこの手紙を書いた時の父とほぼ同じ年齢です。自分自身がこの頃の父とどう違うのか、やはり家族の機嫌に怯えたり、遠慮したり、言い訳したりしているのではないか、と考えると複雑な気持ちになります。

 ところで二つ、付け加えさせてください。

 私は酒には強くありません。日本酒1合で真っ赤になり、2合も飲んだら吐いてしまいます。日本人の約50%ぐらいが私と同じタイプで、お酒を飲むと真っ赤になります。これは、アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)というアルコールからできるアセトアルデヒドを分解する酵素が弱いためです。ALDHが強いか弱いかは遺伝子で決まります。多少訓練で強くはなりますが、もともとの体質には勝てません。父も弱い方でよく真っ赤になっていました。ちなみに、酒に強い遺伝子を持っている人が多いのが、秋田と鹿児島、岩手、少ないのが三重と愛知だそうです。

 それからもう一つ。父からの手紙をここに載せることについて、父からの許可は得ましたが、母からの許可は得ていません。父が母の機嫌を気にしていた、と世間にばらしたら、母の機嫌がどうなるかわかりません。息子である私も母の不機嫌は苦手でした。天国にいる母には、どうかこの記事のことを内緒にしてください。

Que Sera Sera VOL.58 2009 AUTUMN