フクロウblog | 2016 | 4月

医療法人和楽会の「フクロウblog」です。治療や講演会などの様々な情報をお届けします。

病(やまい)と詩(うた) ーウィリアム・S・クラーク先生(5)ー (ケセラセラ vol.81 夏)

東京大学 名誉教授 大井 玄

農科大学から洋上大学へ

クラークは1877年6月初めサンフランシスコに着き、観光や視察の後アマーストに帰ったのは7月末だった。その時マサチューセッツ農科大学は財政問題のため危機的状態にあった。

彼が日本に来る前すでに累積赤字は2万ドルに達していたが、いまや年間赤字は5千ドルにのぼり、手形の裏書きをした理事に返却すべき2万ドルもあった。教授の給料はボストンの高校や師範学校の校長給与を下回っていた。彼は、新聞による大学の誹謗と誤った報道があるかぎり、教育目的と手段を一般の人に理解してもらえないし、入学希望者は増えないと憤っている。

1978年から79年にかけてはクラークの農科大学での最後の学年度だが、大学の財政危機はいよいよ深刻になっていた。その大切な時期78年十月末に、彼は79年五月一日から80年九月一日までの休暇を理事会に申請している。その理由は、ある洋上大学の学長に奉職するというものだった。理事会は、「学長不在は大学の運営に支障をきたす」という当然と思われる理由でこれを却下した。

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『嫌われる勇気』の紹介 -その2- (ケセラセラ vol.81 夏)

医療法人 和楽会 赤坂クリニック 院長 吉田 栄治

 

前回に引き続き、『嫌われる勇気』という本についてもう少し紹介したいと思います。この本は、過去のトラウマなどの原因によって今の症状があるというフロイト的な「原因論」を否定し、いま現在のこの症状は何らかの目的があって存在しているという「目的論」の立場に立つアドラー心理学について述べられた本でした。アドラー心理学を信奉する哲人と、人生に悩みを抱く青年の対話という形で物語はすすんでいくのでした。

 

アドラー心理学について

アドラーについては、私も若かりし頃、いくつか本を読みまして、なるほど…と感化されるところもありましたが、実際の診療での活用は、なかなかむずかしい面があるなと感じていました。何らかの「目的」があって症状が作り出されているという考え方は、周囲の者からしてみると、ともすれば一種の仮病なのかという発想につながってしまう場合があり、少々危険な一面を含みます。ですから、この本の中でも哲人は、種々の症状は決して仮病ではないということ、本人が感じている不安や恐怖は本物なのだということを強調しています。

アドラーの「目的論」をカウンセリングに応用していこうとする場合には、安易な意味づけは厳に慎みながら、相談者とともに症状の持つ意味というものをしっかりと掘り下げていく、その上で、その症状の持つ「目的」というか「意味」というものにどう対処していくか、というスタンスが必要であろうと思います。
しかし今回、この『嫌われる勇気』を読んで、アドラー心理学をもう一度あらためて見直してみようという気持ちになりました。この本は、大変わかりやすくアドラー心理学の神髄について書かれていると思います。

『嫌われる勇気』の内容については大筋を前回のケセラセラでご紹介しましたので、骨子の部分については、そちらを読んでいただければと思いますが、今回は、その続きということで、なるほど…と、うならされたところを、少しご紹介しておきたいと思います。

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「うつ」の診断について (ケセラセラ vol.81 夏)

医療法人 和楽会 横浜クリニック 院長 海老澤 尚

 

当院にはいわゆる「うつ」の方も多く通院しておられます。仕事や学業・家事に支障が生じた方、休まざるを得なくなった方もおられます。「いわゆる『うつ』」という言い回しをしたのは、日常会話で使われている「うつ」という言葉が、医学的診断名の「うつ病」が指すものと重なってはいますが、同じではないからです。「うつ状態」「抑うつ状態」という言葉も、「現在気分がうつの状態にある」という現象を指しているだけで、「うつ病」と同じではありません。「うつ」「うつ状態」「抑うつ状態」の原因には様々なものがあり、そのうちの代表的なものの一つがうつ病なのです。

「うつ」という、日常的な気分の状態を描写するために使われる言葉をそのまま病名に取り入れたため、疾患の特徴は理解しやすいものの、混乱しやすくなった面もあります。「誰でも落ち込むことくらいある、うつ病は病気ではない、気合で治せ」という誤解(このように考える方は現在では少ないと思いますが)は、誰にでもある日常的な一過性の気分の落ち込みと、うつ病という疾患とを同一視しているために生じるのではないかと思います。確かに境界があいまいな場合もありますが、就労・家事・勉学などの日常・社会生活に長期間支障が出るほどのうつ病と、日常的な気分の落ち込みとは区別されるべきでしょう。

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遊ぶ(1) (ケセラセラ vol.81 夏)

医療法人 和楽会 なごやメンタルクリニック 院長 原井 宏明

人とは何か?

自我が芽生える思春期以降に、たいていの人がこんな疑問をもったことがあるでしょう。「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」ゴーギャンはこんなタイトルの絵を描いた後、自殺を図ります(未遂に終わりました)。哲学者や宗教者はかならずと言って良いほどこの話題を取り上げます。人間性心理学のマズローや個人心理学のアドラーのように答えはこうだ!と教えてくれている学者もいます。
中には、こんな風に答えた人も。

人間は、言葉の十分な意味において人間であるときにのみ、遊ぶ。また、人間は、遊ぶときのみ、完全に人間なのだ。

(フリードリッヒ・シラー、「人間の美的教育について」)

人とは何かを四角四面に考えることが問題なのかもしれません。人の本質は真面目さではない、遊びだ!と言い出した人がいます。オランダの歴史学者、ヨハン・ホイジンガです。彼は「ホモ・ルーデンス」“遊ぶ人”というタイトルの本を出し、その主張は、遊びによって全ての人間行動が説明できるとする「遊び一元論」です。遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為や活動です。それは本人が自発的に受け入れた規則に従っていて、その規則はいったん受け入れられた以上は、絶対的拘束力をもっています。遊びの目的は行為そのもののなかにあり、何かの他の目的を達成するための手段ではありません。遊びには緊張と歓びの感情を伴っていて、「日常生活」とは「別のもの」として意識されています。

あなたは最近、遊んでいますか?

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不安のない生活(26) ミュンヘンの思い出 その4(ケセラセラ vol.81 夏)

医療法人 和楽会 理事長 貝谷 久宣

 

3か月のゲーテ学院でのドイツ語研修が終わった。
1972年の暮れ妻と娘と息子がミュンヘンに来て、やっと落ち着いた生活が始まった。ドイツ語研修は終えたが、私のドイツ語会話はまだ心もとなくさらに勉強をする必要があった。私は名案を思い付いた。ミュンヘン大学のメンザ(学生食堂)にある伝言板に“日本語教えます。ドイツ語を教えてください”と書いた紙きれを張ってきた。

1週間もしないうちに電話がかかった。彼の名はEnno von Tautopheus。私と同じ年齢のドイツ人で大きな保険会社に入社したての男性であった。彼の母は戦争未亡人で米兵と再婚し、駐留軍勤務の父と共に日本に数年間滞在したことがあった。彼は日本語が話せるという触れ込みで世界中に支社のある大会社に就職できたが、日本語に自信がなく、私のところに躍り込んできた。Ennoは片言の日本語は話せるが、私のドイツ語の方がまだましであった。その理由は後になって判明した。日本滞在中、彼は上智大学の英語クラスに通い日本語はほとんど使っていなかったからであった。お互いに相手の国の言葉に熟達する必要がある二人はすぐ仲良くなった。毎週金曜日の夜に彼が我が家を訪問し、ドイツ語・日本語ちゃんぽんの会話が弾んだ。途中で彼の女友達Barbaraが同伴するようになった。彼との付き合いで私のドイツ語の進歩はそれ程ではなかったが、しかし、仕事以外で地元の人と
気楽に付き合いができるのは結構重宝なことであった。

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