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病(やまい)と詩(うた)【40】ー夏の海ー(ケセラセラvol.86)

東京大学名誉教授 大井 玄

 

先日、水俣から一冊の本が届いた。矢吹紀人著『終わっとらんばい!ミナマタ―看護師・山近峰子が見つめた水俣病』である。水俣協立病院で顔見知りの峰子さんの、私の知らぬ歴史だった。

彼女は1953年、チッソ水俣工場から直線で2キロほど離れたところで生まれたが、物心つく頃には近所で「奇病」の患者が何人もいた。同い年の田中実子ちゃんは、3歳で発症した小児性水俣病患者だった。父親の池田弥平さんは畳職人だったが、1966年の冬の朝56歳で突然倒れ、その後は寝たきり状態になった。母親は近所の農家の畑仕事を手伝い、生活を支えた。

 

中学卒業後、峰子は民間病院で働きながら看護学校に通い、准看護婦の資格を取り、水俣市立病院に4年勤めるが、20歳になった1971年、突然病院を辞め、大阪に住む姉を頼って家出した。

社会に出て耳に入る水俣病への偏見や差別、水俣の地に育った境遇への嫌悪感、水俣病認定の申請を出した両親に対する複雑な気持ちが重なり、直面する現実から逃げ出す衝動的な行動だった。

水俣病患者は健康と生活を奪われた者の権利として補償を受けるにすぎないのだが、偏見と嫉みが一緒になり、彼女は病院でも周りから嫌味をいわれるのだった。

峰子は連れ戻されるが、父親に訪問看護を行っていた水俣診療所の上野恵子婦長に勧められ、1974年から同診療所に勤め始める。

その後は日常診療活動、訪問看護、水俣病の「掘り起こし検診」に従事し、山近茂と結婚し、4人の子をもうけ、多忙な日々を送る。診療所は水俣協立病院として地域の中核病院にまで成長発展した。彼女を引っ張ってきた上野婦長に何度も勧められ、41歳で看護学生になり、44歳で正看護婦の資格を手にする。

しかしその間、その育った環境からすれば当然予想されるが、若いときから少しずつ現れた水俣病症状が悪化していた。手足のカラス曲がりは、1日に何度も起こり、そのしびれは、年を追ってひどくなった。熱いという感覚も、ケガをして痛い
という感覚もほとんど感じないほど手先の感覚麻痺が進行していた。

上野婦長や藤野糺院長は彼女の様子に気づき、たびたび水俣病の検診を受けるよう勧めたが、受けようとしなかった。それは「やっぱり、『金がほしかねえ』と思われるのが嫌やったけんねえ」という理由だった。若いとき家出をした時の心の傷は残っていた。「恥ずかしい」という気持ちは、この地域のあまねく強い倫理意識である。

ようやく1997年、熊本大学医学部付属病院で水俣病検診を受ける。水俣病の診断が直ちに下った。

しかし、彼女が家族以外に自分が水俣病患者だと告白したのは、2009年9月、「不知火海沿岸住民健康調査」を行った時、初めてだった。若い医療スタッフに、水俣病に侵された患者たちの思いと苦しみを理解してほしいと願ったからである。

 

水俣病事件ということばが風化しつつある。

環境汚染の臨床と疫学という視点から水俣病の発生と拡大に、一瞬触れよう。

この事件は、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド生産の際に生ずるメチル水銀を含む排水を水俣湾に捨て、さらに1958年から水俣川河口に放出したため、不知火海沿岸一帯に拡大したメチル水銀中毒事件である。

1956年、水俣地域で原因不明の「中枢神経疾患」が多発しているのが報告されたが、おなじ症状の患者は1954年ごろから発生していた。ネコやカラスの狂い死も起こっていた。

1957年、熊本大学研究班は、よそから持ってきたネコを湾内で飼育すると発症するのをみて、強く漁獲禁止を求めたが厚生省は拒否した。この時にその措置を取っていたら事態はまったく違った展開を見せていただろう。数万人と推定される患者数にはならなかっただろう。

その後は、チッソによる度重なる責任回避、国と県による事件拡大阻止と患者救済に必要な行政措置の不施行、さらにそれらに対し患者が次々と訴訟を起こすという経過をたどる。

水俣病事件はその後、第一次、第二次、第三次訴訟にまで拡大している。いずれも原告が勝訴した。

とくに1980年の水俣病第三次訴訟は、チッソに対して損害賠償を求めるとともに、国と県については、「行政不作為」つまり適切な行政措置を取らなかったことによる水俣病拡大の責任を理由として賠償を求める、はじめての国家賠償請求訴訟だった。

この訴訟については、2004年最高裁判所が、原告勝訴の大阪高裁判決を支持する判決により、国と県の責任を確定させた。

毒物により環境がひろく汚染され、それによる病気が起こるとき、汚染の程度や、毒物が体内に入る速度などに応じて、症状が典型的な急性劇症型から、慢性の症状数がすくなく程度が軽いものまで、切れ目なく、ばらつくのはごく自然である。

 

水俣協立病院が中心になり、「掘り起こし検診」を続けたのは、地理的に当然汚染されている地域に住んでいても、水俣病を恥と思い症状を隠そうとする人たちをできるだけ多く調べ、環境汚染の実態を明らかにしようとする努力に他ならなかった。

それは、汚染地域で苦しむ人たちに対する愛情と、資力と権力を持ちながら弱者を苦しめる者への怒りに基づく営みであった。私は、短期間であるが、幾夏か、協立病院の診療活動と往診を手伝い、不知火海のきらめきを嘆賞した。

 

きらきらと
きらきらきらと 夏の海

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