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マインドフルネスの臨床効果と脳科学⑬ “考えない”ことを考える?(ケセラセラvol.107)

医療法人和楽会 理事長 貝谷久宣

マインドフルネスは仏教に起源を持つが、宗教的儀式や教義を必要とせず、排他的でなく、簡単で始めやすい瞑想のスタイルである。2012年11月、日本にマインドフルネス・ストレス・低減法(MBSR)の創始者Kabat-Zinn氏を迎えてマインドフルネスフォーラムが開催された折の小宴で、筆者は彼にMBSRの根本理念は何かと直接尋ねた。
すると、即座に“ソートーゼン(曹洞禅)”という言葉が返ってきた。
それで、筆者は気をよくして医療法人 和楽会のマインドフルネス・センターでは禅瞑想を行っている。

曹洞宗の開祖道元は、普勧坐禅儀を著して坐禅の解説をしている。その中で、坐禅の要術を、「兀兀(ごつごつ)して坐定(ざじょう) して、箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量(しりょう)せよ。不思量底(ふしりょうてい)如何(いかん)が思量(しりょう)せん。非思量(ひしりょう)」と記している。この文は、道元の正法眼蔵の中にも示されているが、薬山弘道大師と、ある僧との問答であるという。この問答を現代語にすると(宮川敬之師訳)【ある僧が問うてきました。「そんなに山のように微動だにせず坐禅して、一体なにを考えていらっしゃるのですか」。薬山は回答します。「この、考えが及ばない箇所(不思量底)を考えているのだ」。「考えが及ばない箇所を、どのように考えられるのでしょう」と僧が問うと、「考えとは別のやり方で考えるのだ(非思量)」と薬山が答えた。】

非思量という語は、曹洞禅の本領を示す言葉として重要な意義を持つと言われています。では、禅の達人たちは古来この言葉をどのように解釈しているのでしょうか。手元にある本から「非思量」を解説する部位を抜粋してみましょう。

原田祖岳(1871-1961)師は、“「個の不思量底を思量せよ」不思量そのままの思量、つまり、見れば見たまま、聞けば聞いたまま、思えば思うままである。ちょっとも揀択憎愛(けんじゃくぞうあい)(選り好み)の分別に陥らないのだ。…要するに即今即今であり「タダ」である。富士山が東海の天に突立ったごとく、地球を坐蒲団として宇宙の間にただ一人おるがごとく、大きくどっしりと充実し切ってタダ坐るあるのみ。よくよく深察して信受奉行すべし。”と解説している。

臨済宗の辻雙明(1903-1991)師の説明は、“「非思量」とは、思量分別・一切の価値判断または見聞覚知を超越することであります。しかし、それは単に思量分別をしないとか、見聞覚知しないとかいうことではありません。思慮分別を超越しつつ、しかも思量分別し、見聞覚知を超越しつつ、しかも見聞覚知するのが真の「非思量」であります。”

内山興正(1912-1998)師曰く、“「不思量底を思量する」ということも、この骨組みと筋肉をもって、正しい坐禅の姿(不思量底)をネラウ(思量する)ことなので、このような坐禅を非思量(思いでない)といいます。つまり坐禅のときは、ただ坐禅という姿勢をネライ、この姿勢にすべてをマカセテいること―これだけが正しい坐禅のしかたであります。”

酒井得元(1912-1996)師は、この一説を説明するためにまず、言葉を解説しています。
“「不」も「非」も同じで、否定ではなく人間が介在しない、人間以前の事実が「不」だと言います。”彼の言は、“人間はどうして人間の顔をしているのか。・・・自分が設計して、自分が設計した通りに生まれてきたわけではない。みんな自然に生まれてきた。そこには人間は介在しない。これが不です。・・・不思量底とは我々の(サムシング・グレートから与えられた-筆者注)生命活動そのものですよ(思考活動する前の身体の事実)。”と書いている。

立花知彦(1950-)師曰く:
‘私たちが考えようが考えまいが、本来と言うのは本来なのです。・・・考えるならとことん考えたら良いでしょう。でも本当の本来と言う事は、そういうこととは関係なくありますよ、と言うことであるわけです。それがまあ「非思量」と言うことです。’
ここで「本来」というのは「本来の自己― 父母未生以前の本来の面目」を意味していると思われます。坐禅の眼目である己自究明を言っているのでしょう。

キリスト者であり禅者でもある門脇佳吉(1926-2017)神父は、“体験的に、「思量」では何か根源的いのちと呼んでよいものが開顕し、実現しているという充実感であり、「不思量」では本来自己と万法が一つになった状態であるがそれは自覚されない、そして、「非思量」― すなわち、考えとは別の考え方で到達した経験は、キリスト教的な真正な神経験に相当した”、と述べています。

藤田一照(1954-)師は、“要するに坐禅とは、端的にいうなら『非思の量(思いではつかみきれないもの)』なのだ。だから身心を挙げて実際に兀兀と修するしかないのだ。坐禅とは分別的営み以前の身心の姿勢をひたすら努める以外のなにものでもない”と述べている。

駒澤大学の角田泰隆(1957-)教授はこの部分を次のように解説している:“心に浮かんでくるものは浮かぶに任せ、消えるものは消えるに任せて、一切取り合わず、相手にしないで放っておく。精神統一をしようと思ったり、無念無想になろうとしてはいけないのです。一切の計らいをやめ、努力をやめて、ただ坐るのです。とはいえ、ボーッとしているのではなく、意識は明瞭の状態で、坐り続けます。これが『非思慮』ということです。ある禅師は、「頭で考えるのではない。からだ全体で考えるのだ」と言っています。とにかく、なかなか難しいことです。この「非思量」ということは、自ら体験するしかないように思います。”

宮川敬之(1971-)師はこの非思量底をロゴス的思考(私たちが普通使用している理屈でものを考える思考)ではなく、レンマ的思考(第六感的思考、ピーンと来たと形容される直感的思考)で得られると理解している。彼は、“自分と世界を隔てる確固たる境界に動揺が起これば、非思量的世界(レンマ的思考の世界)を把捉することが可能である”と述べている。

筆者がマインドフルネスに惹かれているのはその根底に脳科学的所見があるからです。ここで問題になっている思考を通さず認知する経験、すなわち、直感的経験の神経科学的背景についての論文がありました(Volz & von Cramon, 2006).
それによれば、眼窩脳中央部、扁桃体、島前部、腹側後頭側頭部が活性化すると報告されています。そして、これらの脳部位の大部分はマインドフルネス瞑想で活性する場所であります(Foxら、2016)。

 

文献
*普勧坐禪儀 平成25年2月25日 第一版、曹洞宗宗務庁 教化部企画研修課
*原田祖岳、普勧坐禪儀講話 大蔵出版、1982
*辻雙明、呼吸のくふう 日常生活の中の禅 春秋社、1992
*内山興正、普勧坐禪儀を読む 宗教としての道元禅 大法輪閣、2005
*酒井得元、坐禅の真実 正法眼蔵坐禅儀 大智禅師法話提唱 大法輪閣、 2017 
*立花知彦、普勧坐禪儀提唱 唯学書房、2020 
*門脇佳吉、『正法眼蔵』参究 道の奥義の形而上学 岩波書店、2008
*藤田一照、宮川敬之、座禅とは何か―『正法眼蔵』「坐禅箴」を身読する Web春秋はるとあき
 https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/2451
*角田泰隆、坐禅の心得と作法―「坐禅儀」の巻 NHKラジオ第2放送 宗教の時間 道元『正法眼蔵』をよむ 令和3年9月12 日放送
*Volz KG, von Cramon DY.J Cogn Neurosci. 2006,18:2077.
*Fox KCR et al., Neurosci Biobehav Rev 2016 65:208

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